ミズーリ州にチューラ・ピンクを訪問
アメリカ、ミズーリ州カンザスシティ空港より北へ約一時間。車を走らせ向かったのはセントジョゼフ。かつてアメリカ開拓時代にフロンティアたちが西部へと向かう出発地点であり、十九世紀半ばには幌馬車が行き交い賑わった街だった。この地にチューラ・ピンクの仕事場がある。地域の富豪が所有していたという馬車置き場、その大きな建物丸ごと一軒が、カラフルでユーモアたっぷりのオリジナル生地「チューラ・ピンク」が誕生する場所。羨ましいほどの広い空間と自然に囲まれ、室内のあちこちにキルトやオブジェが無造作にしかし素敵に溶け込んでいる。
アメリカのキルトの世界、特に世代の若い層に絶大な人気を誇るチューラは、布デザイナーでありキルト作家である。彼女のデザインする布「チューラ・ピンク」がクラフト、ソーイングの愛好家を虜にしている理由は実物を見ればすぐわかる。鮮やかでありながらどこか懐古趣味的な色。その色の一つ一つはオシャレなチョイスで厳選され、細密画のように描き込まれた図柄はトリックアートを思わせる緻密さだ。
布を近くで見ると柄に小動物などが潜んでいたり、ちょっと距離をおくと「あれっ?」目がこっちを向いていたり、それぞれのパーツが例えばキツネや人物の顔を構成していたことに気づくと、さらに魅力にハマるのがチューラの布。ガイコツやタトゥーもチラチラ潜んでいて、そんなブラックなユーモアを「結構嫌いじゃない」と感じたらもうこの布のファンになっているという具合。それが「チューラ・ピンク」なのである。
チューラの生地が発売され、キルトの世界に紹介されたのは七年前のこと。当時、チューラはロサンゼルスに住んでいて、音楽の世界でデザインやイラストの仕事を持ち、CDジャケットなどを手がけ多忙を極める年月を過ごしていた。ストレスに満ちた毎日の精神安定剤は意外にも縫い物。帰宅後に気分転換の楽しみとして縫ったり、さらに自分の欲しい布のデザインにも取り組んでいたが全くのホビーの範疇だった。そんな中、チューラのデザインした生地が発売されることになり、アメリカ最大のキルト関係の業者向けマーケットで販売された。
当時、アメリカのキルトの世界で流通している生地といったら、「リプロダクション」と呼ばれる「南北戦争時代に作られた生地」や「三十年代に多く出回った布」「ノベルティの布」が主流で、それとは違う個性的だったり特徴的な布は売れないとの認識がはびこっていた。そんな折、チューラのデザインしたパッと鮮やかな「山猫」のプリントが突如発表されると、それを販売するメーカーの心配をよそに大ヒットとなる売り上げを記録。そこから「チューラ・ピンク」の快進撃が始まった。
「甘いモチーフ、例えば花なんかをメーカーは希望したけど、それはきっと私でなくても描ける人は大勢いるわけで、何しろ『自分が創作、デザインした布』を作りたかった。今も世界中で注目されているケイフ・ファセットやエミー・バトラーはその先駆者でずっと尊敬しています」とチューラ。基本的には年二回、新柄を発表し、最近は取扱メーカーが変わったが、そのペースは変わらず、生地にどれだけユーモアを込められるかを毎回大いに楽しんでいる。
アメリカのキルトの世界では、十年ほど前から「モダンキルト」が新ジャンルとして加わり新時代に入った。チューラのデザインする明るい色や個性的な柄は人々の好みの傾向に合致して、幅広い世代のファンを獲得することになり時代の波がさらに大きく進んで行くきっかけにもなった。
毎回、新柄を発表する際にしてきたのはプロモーション用にキルトを作ること。キルト作りは元々大好きだったし、昔懐かしいアメリカのトラディショナルパターンに新色と新柄をはめ込むと、レトロでありながらフレッシュな感覚のキルトがいくつも仕上がった。「昔からあるアメリカのパターンには歴史もストーリーもあるから興味は尽きないし、何しろたくさんあるから選択肢が多くていいんです」とチューラ。次々に見せてもらったキルトはおしゃれでモダンで、しかしアメリカの伝統キルトのスタイルを守りながらもワクワクするような新しさがある。
現代のアメリカンキルトのヒロイン、チューラ・ピンクは才能溢れる三十代。有能な彼女を支えるのはマネージャーとして仕事を管理する母と、インターネットを総括する兄弟。「チューラ・ピンク」はファミリービジネスの成功例でもある。かつての西部開拓者たちのゲートウェイの地で、現代のフロンティアたちも確かに「その先」を目指している。